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総台山の烽火台
北侖区南東部の郭巨に位置して、西は阿育王山脈と接し、北は穿山を負い、南は東海に瀕し、浙東の重要な軍事基地の一つである。明朝初年はすでにこれで千戸所を設立し、郭巨城を構築し、郭巨総台山の烽火台石屋を建てた。
郭巨の総台山烽火台の石屋は北侖区の白峰鎮北郊外の総台山山頂に位置する。総台山の別名は三塔山で、海抜309.2メートル、穿山半島東端最高の峰である。海の向こう側が舟山諸島の朱家尖で、頂上には北侖港埠頭の雄姿と梅山の港、螺頭水道と峙头洋水面の船舶をはっきり見える。
烽火台の石屋は明朝の洪武二十年(1387年)から造られ、当時の郭巨城に従って構築、三塔山台と呼ばれている。清朝と明朝に使われていた。総台は上に立ち、下には高山、土沢、観山、梅山などの五つの烽火台を管轄する。郭巨の総台山烽火台の石屋の構造が独特で、土台は砂土を固めてから構成、その上には石屋がある。台基は台形を呈し、上辺の長さは7メートル、下辺の長さは8メートル、高さは3.7メートルで、非常に堅固である。石屋は山ほど硬くて、条石を敷き、石柱と石梁ははめ込む式を採用、四方の壁は孔石で築き、庁は南向きで、見張り穴を設置、現在でもほぼ完全に保存されている。
中華民国の『鎮海県誌』によって、(総台山烽火台)旗の軍を設置、情況を観測、昼夜煙火を燃え、相互に応援し、お互いに距離が遠いので、総台を設置した。明朝中葉以来、戚継光は倭寇を反撃する。現地人民英雄は倭寇、英国、フランスなどの侵略を反撃、その狼煙はここから燃え始めた。総台山烽火台の石屋は人民群衆が外敵に恐れない、その侵略を迎撃することを証明した。一つ得難い愛国主義思想教育基地である。
この遺跡は高い歴史、芸術、科学研究と発掘利用価値がある。白峰鎮は五十年代以来、毎年は各村、会社、単位、学校が自発的に共産党員、共産団員、中小学生を組織、総台山烽火台に来て、愛国主義革命伝統の教育を行う。郭巨人民の近代史を語り、倭寇、日本軍の侵略歴史事実と革命先輩の根強い抗敵精神を勉強させる。
1994年11月23日に、北侖区人民政府は総台山烽火台を区レベルの文化財保護点と認定した。1997年6月、郭巨の総台山烽火台は浙江省人民政府に省レベルの文化財保護点と認定した。

沙溪遺跡
沙溪遺跡は北侖区柴橋沙溪村の北部に、穿山から白峰までの国道の南側に位置して、海抜19メートルの蛇山の東である。1987年に、遺跡の北西部、蛇山の片側が相変わらず高所で、蛇山の東坂と繋がっている。その後、煉瓦工場は土をたくさん掘ったため、高所はだんだん削られ、遺跡上部の商周文化層がほとんど消え、新石器時代末期の文化層もひどく破壊された。現在遺跡の面積は7000平方メートルである。
二期の発掘を通して、沙溪遺跡が通常意味上の遺跡堆積ではなく、一種の特別な大型人工遺跡であって、とりあえず“多層灰面”遺跡を仮称する。
“多層灰面”遺跡の構造は次のように述べられる:灰面を媒質として、北(西)向と南(東)向に傾いた土層を呈した。遺跡の層位関係は縦の積み重ねと表現するだけではなく、さらに横の方向へと拡張すると現れている。発掘面積の制限の原因で、遺跡の層をはっきり確定できなかった。すでに把握した資料によって、“多層灰面”遺跡の厚さは1.4メートル(上部はすでに破壊され)を超え、層階は10層余りがあって、面積は2000平方メートルを超えた。
“多層灰面”遺跡の成因は次のようと考えられている。まず、純潔な泥を敷き、平らげ、更にその上に、草木灰、焼き土、陶器スライスなどを焼くの順番を繰り返す。その過程で、意識的に北を高く上げ、南を低く下げである(遺跡は北西部向きの地形の原因かもしれない)。発掘過程の中に、層と層の間の媒質は草木灰外、陶器の塊、土の塊、動物の骨などがあり、遺跡自身の土質の差別ほぼなく、その年代にある位置と接近する。
“多層灰面”遺跡より早い文化遺存は希少で、主に何カ所の灰坑がある。そのうちの一つはドングリを貯蔵するための坑である。ドングリは澱粉類食物の一種である。何ヶ所の灰坑中から掘り出した土陶スライスの分析によると、その上に溜まってある“灰面”遺跡と同じ時期のものである。
“多層灰面”遺跡の性質に関しては、ただ層位の媒介物からその中身を分析することがしかできない。草木灰、焼き土と陶器の塊はすべて火と関係があって、このほかに、媒介物の上に動物類、魚類の骨があり、それは食肉の食べ残りであるから、遺跡の界面ごとは一種の宗教活動、一種の宗教儀式と判断される。この儀式は必ず遺跡の機能と関わりがある。遺跡は海に近く、遺跡には“火”を使い、“水火相克”の原因で、遺跡は沿海住民は海に対する危惧があって、それを跪き、額ずく宗教心を反映する。この点は更なる考査が必要である。
文化遺物は主に土器で、石器はきわめて希少である。土器は雑砂、細泥、粗泥などの陶類があり、その一部の雑砂、粗泥の陶は充分に焼いてないため、“木炭を挟む”でいる状態と呈する。陶の中に有機物を混じってある。土器の種類は鼎、釜、槽、皿、豆、鉢、釜支子などがある。そのうち魚鰭形になっているのは皿形鼎で、竹節柄の黒陶豆は諸文化典型的な器です。縄紋釜、釜支子などの道具は河姆渡後続文化の特徴がある。土器中の最大部分は一種粗泥の紅陶で、器の形は小口が特色である。主な種類は重心が低く、足が丸くなっている陶器である。また、縄紋釜、鼎と一種直口の鉢もある。この部分の土器は地域特色を持っていて、舟山諸島の馬岙遺跡と似ていて、浙江沿海地区の一種新しい考古学類型である。

戚家山営舎
金鶏山から南へ、山峡の谷間の沙蟹嶺を超えれば、戚家山を見える。戚家山の高さは50メートルに足らず、静かに大地に横臥して、周りは松柏に囲まれ、環境は幽雅である。嘗て、ここは清朝の軍隊の重要な駐屯地で、今は、一つの観光景勝地となった。
戚家山は古く“七家山”と称して、ここは七つ山の最後の一つである。浙江提督欧陽利見氏はフランス軍の侵略を防御するため、戚継不将軍の戚家軍のように勇壮すると激励し、この“七家山”を“戚家山”と変えた。(注:“七”と“戚”は同音である。)
戚家山は元々雑草地で、地形は険しい、前は金鶏山の防壁があって、後ろは平めた丘で、側面は山と海の情勢を覗ける。一つ安全な隠れ場である。戦争するとき迅速に待ち伏せることができ、即座に士兵を集まれ、一つ恵まれている臥竜の地である。欧陽利見提督は作戦前に、みずから将兵を指揮して、頂上で道を開く、石を掘り、半年をかけて、千数百の兵卒は山頂でサッカーフィールドほど大きい平地を掘った。掘り下げた山石はその場で利用されて、山頂周辺数十間の営舎と城塁を積み上げた。初歩の測量計算によって、この城塁(即営舎周りの塀)南北の長さは150メートル、東西の幅は50メートル、周長は400メートル余り、塁の高さは2~2.5メートル、幅1メートル余り。城塁の壁に数メートル置きに覗き孔と銃穴があり、営舎周りの草木を見え、近く見れば鉄壁のようである。塁中に3000平方メートルの操練フィールドもある。
営舎の北側、南側には二つの門があって、それぞれ一本の小路がある。駐留兵の営舎と繋がる。中仏戦争の時、小港の愛国者楽氏夫人は、この2本の小路の路面情況が悪くて、通行不便の事を見て、自ら出資して道を平板石路に修築した。
今、戚家山営舎の隣に“戚家山ホテル”が建設され、周辺の環境を良くさせ、戚家山の風貌に大きな変化をもたらした。各種のサービスは相次ぎ出来、山下ビルも山峰のように立てたら、道路は銀蛇のように盤転している。寧波経済技術開発区連合開発(集団)会社がこの海防遺跡を保護するため、大金を使って、南営舎の正門から一本の石階段を山下まで修築した。また入り口のところに一つ青石牌楼を立て、“戚家山”の三字を上書する。修繕後の戚家山の環境は一層きれい、海防遺跡はもっと荘厳に見える。

宏遠砲台
宏遠砲台は北侖区現存している最大規模の砲台である。甬江南岸の笠山に位置して、甬江口の防壁である。笠山の高さは30メートル余り、巨大な三合土砲台と鉄筋コンクリート砲台は一体になり、気勢は極めて広壮である。
清潔寛大な石寝を通れば、頂上の砲台まで辿れる。砲台は中仏戦争以後の光緒十三年(1887)に造られ、寧紹台道の薛福成氏が創建、同知(助手)の杜冠英氏が監督して造った。砲台は双環層半円型の環山型で、視角は180度、甬江数海里の海域は射程内である。砲台は石灰、黄泥、砂礫、もち米汁によっては積み上げた。巨大な青石は重なって土台となり、“柔よく剛を制す”の効がある。コロボ二十四型十寸口径の後膛鋼鉄砲の2門、重さ20トン、二十一型八寸口径の後膛鋼鉄砲の1門を置き、射程は5キロメートル以上もあって、“砲の王”と俗称される。まだ山頂には五つの営舎と一つの弾薬庫がある。宏遠砲台は2年余りをかけて造られ、七万五千両余りの白銀を使った。
中仏戦争鎮海戦の時、甬江口の第一防御線は招宝山の威遠砲台と小港の鎭遠砲台である。戦争のエスカレーションにつれて、砲火射程は伸び、第一防御線はすでに情勢の需要に適応不能になった。薛福成氏は甬江口の形勢と地理を通覧して、第一防御線を2キロメートル先へ移し、笠山に第一防衛線を建設し、招宝山防衛陣地を第二防御線となった。そのため、薛福成氏は一篇の銘文を書き、“宏遠砲台の銘”と言う。その銘文の終わりのところにこのように記載されている。“笠山の地形は海浜に際立ち、三つの面は敵を受け、そのうえ甬江口の前に居する。姿勢は諸砲台に届ける。現にこの新炮(コロボ大砲を指す)を得て、東は蛟門の口を御し、西に険しい山を抑える。敵艦をわが洋内に入れないようにする。普段はよく訓練して、いざという時に使うと、鉄甲でも破れる。西洋諸国が砲台を造り、ただ始まる時間が違う、各自に短所と長所があっても融通することができないと私が聞いてある。我々はそれを修正して、常に研究し、負けないように頑張る。杜君(杜冠英を指す)とその後任ら一緒に頑張って、最後まで勝てれば、自分も満足できる。”この銘文の碑、細かく彫られて、碑下に伏亀があり、その後気象台を建設するため、行方不明になった。実際に残念なことである。
抗日戦争時期、笠山は新しい防衛工事を増設した。現代の最新技術を採用して、一つ巨大な鉄筋セメント砲台を築き上げた。1932の夏、ドイツ軍の軍事総助言者フライジさんは甬江口の要塞に調査をする時、笠山の宏遠砲台がすでに日々発展している軍事に適応不能と判断して、新しい砲台を造ることが必要と考えた。宏遠砲台の台壁を掩体として、元の砲台の中心に直径14メートル、高さ3メートルの鉢式砲台を建てた。砲台の内に360度回転できるレールを取り付け、更なる大きいな威力を発揮できる。その他に4丁の高射機関銃と20ミリの高射砲2台を設置した。
1937年の抗戦初期から1940年の4年間、日本軍は数回に渡って宏遠砲台を砲撃した。わが砲台は一生懸命に日本空軍を反撃、大きな戦績を取得した。例えば、1939年6月7日、日本の6隻の飛行機は甬江口までに飛んで、その上空に旋回して、突然宏遠砲台に急降下し、奇襲しようと企んだ。高射砲射手たちはすでにそれを発見、飛行機を追随、照準し、第一隻の飛行機に爆発弾を8発も連発し、日本軍の飛行機の尾部は濃い黒煙が湧き出し、甬江口の岸から800メートルの海面に墜落した。操縦士スカイダイビング後、わが軍の官兵に包囲され、ピストルで自殺した。
笠山の麓にある鎭遠砲台は光緒6年(1880年)に、杜冠英氏の監督で造られた。砲台の長さは40メートル余り、壁の厚さは2メートル、“三合土(石灰・砂・粘土)”を混ぜて積み上げた。五つの砲があり、営舎は十一間である。最初建てた時に白銀六千両余りを使った。中仏鎮海戦のとき、フランス軍の弾薬を多く消耗させ、防御適当のため、砲台はあまり破損がなかった。宏遠砲台が完成した後、この台は後備になり、ただ幾つの小さな砲が残されていた。今、この砲台はひどく壊され、しかし基本的な形はまだ存在している。私たちは愛国主義教育のよい材料となった。
 
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